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インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌 感想

2013年のカンヌで審査員グランプリを獲得した、コーエン兄弟の監督作品。

デイブ・ヴァン・ロンクという1960年代に活躍したアメリカのフォークソング歌手の回想録を元に、ルーウィン・デイビスという架空のフォーク歌手の1961年のある一週間の生活を題材にしている。

ルーウィンは、才能はあるものの芽が出ないフォーク歌手。決まった住居も無く、知人の家を泊まり歩く生活をしている。泊めてもらった大学教授の家の飼猫を逃がしてしまったり、期待を掛けてもらい、色々お世話になっている仲間の女性歌手からは、妊娠を告げられ、その中絶費用の工面も必要になってくる。実家では、姉が父親の介護費用のために家を売ることを考えていて、ますます居場所が無くなっていく。そんな中、一縷の望みで、前にソロアルバムを送ったはずのシカゴのプロデューサーのところに売り込みに行くが・・・。

主役のオスカー・アイザックという俳優がミュージシャンでもあり、全編、60年代テイストのフォークソングが散りばめられているが、バックステージものという感じではない。喜劇俳優を使ってもっとコメディ色が強いものにすることも可能な台本を、ユーモアなタッチは残したまま抑制された演出で、認められないアーチストの不安と焦燥を描いた正統的なドラマに仕上げている。歌唱を含めて俳優たちの演技も素晴らしい。カメラも出色で、グリニッジ・ビレッジの様子やフォークソングが歌われていたバーの模様がなんとも言えない郷愁を誘っている。

一方、フォークミュージック関係者からは、映画が必ずしも60年代初頭のフォークソング界の雰囲気を反映していないという批判が出ているらしい。フォークソングというと日本では、70年代の学生運動や反戦活動を彩った社会派プロテストソングとしてのイメージが強く、キングストン・トリオやブラザーズ・フォーの楽曲は知っていても、60年代のフォークソングについては、アメリカンポップスの一分野程度の感覚しか持っていないのだが、確かにこの映画で描かれているフォークミュージックのシーンや、ニューヨークやグリニッジビレッジは、余り60年代という感じがしないような気もする。

勿論、コーエン兄弟を始めとして、この映画のスタッフもキャストも、年齢から言って60年代のフォーク・ミュージック界を知らない世代ばかりであり(斯く言う自分もそう)、その時代の雰囲気を再現するというのが難しかったのかもしれない。しかし、そればかりでなく、もしかしたら、コーエン兄弟は、この作品を特定の時代に属するものとしてではなく、もっと普遍的な文脈の中に置きたかったのかもしれない。

実際、映画には、当時の社会相を顕著に現すものは、あまりは登場していない。この頃は、ケネディ大統領の二年目で、人種差別撤廃の公民権運動が高まりを見せていた時期にあたり、又、米ソの冷戦中で反核運動も盛んになっていた時で、これらの動向にフォークソング界も当然大きく関わっていたはずなのだが、そういった事を窺わせるものはこの映画にはほとんど出てきていない。当時の時代相を思わせるようなものは、あるシーンでデイビスが除隊間近の兵隊のフォークシンガーに「軍隊でエルビスには会えたか?」と冗談を言う場面ぐらいで、後は、むしろ注意深く、そうした時代的な色彩を排除しているような気がする。

映画の中盤で、オスカー・アイザックとジャスティン・ティンバーレイク、アダム・ドライバーが歌う「プリーズ・ミスター・ケネディ」というコミカルな曲があるのだが、この歌は、元々ベトナム戦争に徴兵されることを嫌がる若者の歌(1962年)であったものを、映画ではロケットで打ち上げられる事に怖気づいた宇宙飛行士の歌に変えられている。この変更も、60年代後半から高まりを見せ、アメリカの社会に大きな影響を与えたベトナム戦争のことを余り浮かび上がらせたくなかった為なのかもしれない。